3月11日
2016/03/11
こんにちは。院長の泰輔です。
今日で3.11から5年もの月日が経ったのですね。
5年前、私たち夫婦は仙台にいました。
ライフラインが途絶えた中で、不安を抱えながら過ごしていたことを覚えています。
食べるものはどうしようか。
暖はとれるだろうか。
水はどうしようか。
明かりはどうしようか。
あの当時は1日がとても長かった。
それでも、少しづつ情報が入ってくるにつれ、
自分はまだまだ恵まれている方だと分かり、
せめて他人に頼らない生活をしてやろうと、
普通の生活を早く取り戻してやろうと、意地になって生きていました。
私は大学病院の職員だったため、仙台を離れられなかったのですが、
当時妻は大学院生でしたので、高速バスが再開して間もなく、
1人実家(長野)に帰しました。
2週間ほど、私は1人仙台に残って過ごしました。
妻が長野から仙台に戻る時、大量の野菜や食料を抱えて帰ってきました。
今日で3.11から5年もの月日が経ったのですね。
5年前、私たち夫婦は仙台にいました。
ライフラインが途絶えた中で、不安を抱えながら過ごしていたことを覚えています。
食べるものはどうしようか。
暖はとれるだろうか。
水はどうしようか。
明かりはどうしようか。
あの当時は1日がとても長かった。
それでも、少しづつ情報が入ってくるにつれ、
自分はまだまだ恵まれている方だと分かり、
せめて他人に頼らない生活をしてやろうと、
普通の生活を早く取り戻してやろうと、意地になって生きていました。
私は大学病院の職員だったため、仙台を離れられなかったのですが、
当時妻は大学院生でしたので、高速バスが再開して間もなく、
1人実家(長野)に帰しました。
2週間ほど、私は1人仙台に残って過ごしました。
妻が長野から仙台に戻る時、大量の野菜や食料を抱えて帰ってきました。
長野で荷造りをしている妻の写真が残っています。
震災からしばらくは、東北では生鮮食品がほとんど手に入りませんでした。
妻が抱えて帰ってきた食料を、知り合いのところに配って回りました。
いろんな方に感謝されましたが、私もまた多くの方に助けられました。
差し伸べられる助けの手はやはりありがたく、
そんな人たちのおかげで今こうしていられます。
そんな人たちのおかげで今こうしていられます。
あれからこの日は少し特別な日になりました。
忘れず、かといって囚われすぎず、前に向かって生きていこうと思います。
忘れず、かといって囚われすぎず、前に向かって生きていこうと思います。